冬菜かしこの「ジムと畑とボランティア」の日々

二人娘は小学生、アラフィフママのどたばたな毎日の記録。

【エッセイ】6月の入院(その2)

さて、続き。

 

早朝4時に体が立てなくなった私に、

救急車の音で近所に騒がれたくない主人が、

「救急車は絶対呼ばないで!」

と釘をさしてきた。

 

もしも主人の言うとおりに、

主人の肩を借りて自宅の車に乗るとして、

私の腰はもうその短距離の移動さえ許さないほどの痛み。

恐らく精神的に持たないだろう。

命の危機を感じる激痛が、

腰を動かすたびに容赦なく襲ってくる。

 

世間体を気にする主人。

腰の激痛で動けない私。

 

すでに精神力は限界に達し、

意を決して私はある提案を主人にした。

「あなたが出勤して、近所の人が騒がない時間になったら、

ひっそりと自分で119番通報する、というのではどうかな?」

 

この状況でも、自分のスケジュールの予定変更に難色を示していた主人は、

私のこの提案にのってきた。

そして、6時47分にいつも通りに出勤していった。

 

「近所の人が騒がない時間になったら通報」

とは言ったものの、子供たちが登校したら、

自分一人だけになる。

自宅の鍵かけも出来ない。

何かあっても誰も助けてくれない。

私は速攻で携帯を手にして、119番に通報した。

「体が動けません。助けてください!」

 

15分ほどで、サイレンの音を響かせて救急車がやってきた。

救急隊員の姿を見た瞬間、「助かった!」と泣けてきた。

そして出来るだけ体を動かさないようにして、

ストレッチャーにのせてくれ、そのまま救急車の中へと運ばれていった。

 

子供たちは私が指示した通り、

家に鍵をかけてくれ、

救急隊員の人が見守る中で登校したようだった。

「生き延びられた!」

もう何も考えられないほど、

疲労が襲ってきた。

 

救急車はゆらゆらと、総合病院に向かって走っていった。

どこの病院を希望するかと聞かれて、

いつも行く総合病院の名前を挙げるも「そこは無理です」と断られ、

結局中規模の総合病院へと搬送された。

レントゲン、MRIを撮り、病室へと運ばれて、

検査結果を待つことになった。

体を動かすたびに激痛が走ったものの、

動かなければそこまでの痛みがないのがせめてもの救いだった。

 

検査台に乗るたびに腰が動き、

他のたびに激しい痛みが襲ってきて、

私は「いったーーーーーーーーーいーーーーー!」と絶叫していた。

その様子から「圧迫骨折かもしれない」と言われ、

骨折なら最低でも1か月の入院になると言われた。

入院の手続きの為主人の来院が必要だと言われたので電話をして、

「圧迫骨折なら1か月の入院」と告げると、

主人は沈んだ声でそれを受け入れる返事をしていた。

 

そしてしばらく待った後、検査結果が出たとのことで、

担当になった医師が病室にやってきた。

「レントゲンでもMRIでも、骨折はなかった。

ぎっくり腰でしょう。痛みがなくなったら、今すぐにでも帰れますよ」

朗らかにそう告げる医師に、

「この痛みで自宅に帰宅できるわけないでしょう!」

とふつふつと怒りがこみ上げてきたが、

反論する元気は残っていなかった。

ただ、骨折ではないとのことで、

幾分気持ちがやわらいでいった。

 

結局それから9日間、入院することになった。

本当は13日間入院することを提案されたのだが、

主人が会社を休みたくないとのことで、

土曜日に合わせて退院としたのだ。

強く引き止められれば、平日退院にしたのだが、

リハビリ担当の先生から「大丈夫でしょう」との言葉を頂いたので、

土曜日に退院することにした。

 

退院の当日は次女が療育に行っていたので、

主人と長女が来てくれた。

エレベーターに3人で乗り込んだ瞬間、

私は長女を抱きしめていた。

「治ったんだ」と実感しました。

自分の足で立ち、自分の腕で長女を抱きしめて、

ようやく自分の体が元に戻ったことを実感した。

 

パジャマで過ごした病院と違い、

外出着で病院を出た。

自宅の車に乗り込み、

まだ残る鈍い腰の痛みを、

シートを倒して耐えながら、

全快ではないのだと痛感しながらも、

もう病院に閉じ込められていないという開放感が、

体中に巡っていった。

 

懐かしい車、懐かしい町の景色、懐かしい我が家。

何もかもが徐々に元の色を取り戻していき、

モノクロだった私の生活が、

数えきれないくらいの色で彩られ始めた。

 

「自由とは、なんと素晴らしい事なのだろうか」

そんな当たり前のことを、

頭の先から足の先まで、

体のすべてが喜んでいるようだった。

 

「僕が出勤して速攻で119番したらしいが」

と主人が言うので、

「そりゃあそうよ、死にそうだったもん」

と返事をした。

入院前の「入院なんてしないと思うよ」

と言っていた主人は、もうそこにはいなかった。

ただ、この9日間、私が痛みと闘っていたように、

主人は主人で、慣れない家事と育児に奔走されていたようだった。

かたくなに119番を拒んでいた主人のことを、

責める気持ちは、私にはもうなかった。

 

「子供たちのこと、ありがとう」

ただその感謝の言葉しか、浮かばなかった。

 

退院後のことは、また次回に。