冬菜かしこの「ジムと畑とボランティア」の日々

二人娘は小学生、アラフィフママのどたばたな毎日の記録。

【エッセイ】ショートケーキの苺

「ショートケーキの苺をいつ食べるか?

最初か?最後か?」

という平和な問題を問われると、

いつも楽しく答えている。

こういう毒にも薬にもならない質問が好きなのだ。

 

子供の頃からずっと一貫して、

「苺は最後に食べる派」

を自認してきた。

誰に何と言われようとも、

好きなものはずっと取っておいて、

長い時間楽しみたいのだ。

 

先に食べてしまえば、

その先には、苺のテンションはない。

あーあ、食べちゃった。

もう終わったんだな。

という、味気ない気持ちになってしまう。

それが嫌なのだ。

 

そんな苺ごときでテンション変わる?

という人がいたとしても、

私はこだわっていた。

どうしても、長い時間、

苺とともに楽しい時を過ごしたいのだ。

 

これは、なにも苺に限ったことではない。

いくつかの食べ物があり、

その中に好きなものがあると、

最後まで取っておく。

それを食べるまでの間、

ずっと幸せな気分に浸れるのが

好きなのだ。

 

苦手な物から食べていき、

最後に好きなものを食べる。

そうすると、苦手なものも、

「これを我慢すれば、あれが待っている!」

とモチベーションも上がるというもの。

長い間、この姿勢を貫いてきた。

 

ところが、である。

いつからか、この考えが変わってきた。

「本当に、好きなものを最後にするのが正解なのか?」

と疑問を持ち始めたのである。

 

ことの発端は、あるお菓子だったように記憶している。

いくつかの種類のお菓子を食べる時に、ふと、

「好きなものを残しておくと、

それにたどり着くまでに、ずっと、我慢しなきゃいけないのでは?」

と思い立ったのである。

 

その理論はこう。

「仮に、3種類のお菓子があったとしよう。

好きな順に、A、B、Cである。

Cを食べる時、BとAに遠慮しているので、

我慢している。

 

次に、Bを食べる時、Aに遠慮しているので、

我慢している。

 

最後に、Aを食べる時、やっと満足している」

つまり、一番好きなAを食べるまで、

ずっと我慢が続くのである。

本当は、BもCも、我慢しないで楽しみたいのに、

Aを残すことで、我慢を強いられるのだ。

 

ならば、と方針転換してみた。

「好きな物から、食べてみよう!」

 

その理論はこう。

「仮に、3種類のお菓子があったとしよう。

好きな順に、A、B、Cである。

 

Aを食べる時、大満足である。

 

次に、BとCが残っている。

その中で、一番好きな、Bを食べる時、

大満足である。

 

最後に、Cが残っている。

Cを食べる時、大満足している」

 

この理論を思いついた時、

大発見だと思った!

こうすれば、好きなものを我慢せず、

しかも、さして大好きではないものでも、

嬉し気に食べられるのである。

 

嬉しかった。

この理論を発見した時、

小躍りするくらい、嬉しかった。

 

それからというもの、

「ショートケーキを食べる時、最初?最後?」

の質問には、満面の笑みで、

「もちろん、最初!」

と答えるようになった。

その理由を言いたくて、うずうずするが、

あまりに張り切ると、周りが引くのも想像がつく。

ここは大人の対応で、

理由については、聞かれるまで待とう、との姿勢に決めた。

 

「聞かれぬなら、聞かれるまで待とう、ホトトギス」なのだ。

 

そうして、やたらめったに、

好きな物から食べる生活をしていった。

むしろ、何種類かの食べ物が並んでいると、

この理論を実践したくて、

わくわくした。

皆がこの理論を実践すればいいのにーーー、

などと、余計なお世話なことまで考えだす始末。

凡人がたまに熟考すると、

めんどくさいなと我ながらあきれる。

 

しかし、この理論はどうしても譲れない。

下手すると、

「ショートケーキの苺、最後です」

という人を、

「そうじゃないのよ、分かってないなー」

などと、他人に言うと怒られそうなことを

言ってしまいそうな勢いである。

 

そうして、月日は流れた。

ある時、私と同様に、

「ショートケーキの苺は最初」

という人に出会った。

「うん、うん。分かっているね。

そうなんだよ。苺は最初なんだよ。

それでこそ、苺も報われるってもんだよ」

などと良く分からないことを考えていると、

その人は、きっぱりと言った。

 

「だって、子供の頃、お兄ちゃんに、

苺要らないの?食べてあげるよ、って、

横取りされたことあるから」

 

ああ。

そう。

そういう理論ね。

私の熟考した理論と、

彼女の単純に経験則から来る理論が、

同じだったのね。

ふーん。

私、色々考え抜いた末の、

結論だったのに。

 

無邪気に笑う彼女を見ながら、

私はふと、自分の幼少期を思い出していた。

 

「私も、お兄ちゃんに、苺食べられたことある」

 

同じ経験をしながら、

彼女はすぐに、経験から学び、

先に苺を食べるようになり。

 

かたや。

同じ経験をしながら、

私は全く、経験から学ばず、

のん気に苺を最後に残していたのだ。

とんだ、回り道。

 

人は経験から学ぶというが、

それには個人差があるのよね、

とその時に悟った。

 

そして今の私はと言うと、

その時々で、

先に食べたり、あとに残したり、

結局、自由気ままにしているのだ。

 

あれこれ理論立ててみたところで、

感覚を重視する人間にとっては、

厳密なルールなど、守れないのだ。

そうして、

「ショートケーキの苺、いつ食べるか問題」

の話をする度に、

苦笑いする私なのであった。