冬菜かしこの「ジムと畑とボランティア」の日々

二人娘は小学生、アラフィフママのどたばたな毎日の記録。

【エッセイ】断捨離のジレンマ

断捨離をした人で、

「ジレンマ」を感じたことがある人は

どのくらいいるのだろうか?

そして、どのように克服してきたのだろうか。

 

7年ほど前、妹から断捨離本を勧められて、

借りて読んだ。

 

幼い二人の娘との生活で、

およそ整理整頓という言葉からは程遠い生活を

していた私に、それらの本は響いた。

そして、実践していった。

 

最初は捨てやすいものから、

とのことで、

賞味期限切れの食品やら、

不要となった書類やら、

色あせた本やら、

絶対に着ないであろう洋服やら、

捨てていった。

 

そのうちに、勢いづいてきて、

「多分、もう要らない」

と思うものは、

片っ端から捨てていった。

 

食器棚も、本棚も、洋服ダンスも、

収納の中は見違えるほど物が減り、

出し入れもしやすくなった。

おそらく、総量の半分くらいは捨てたのであろう。

見違えるほどのすっきり具合となった。

 

そして、その頃から、

「断捨離のジレンマ」が始まったのである。

 

最初に気づいたのは、

「食器」であった。

私の家族は4人なので、

大体の食器は「4皿セット」で購入する。

その後、何かの拍子で皿が1枚割れる。

すると、そこで問題が発生する。

「もう同じ柄の皿は売っていない」のである。

 

かくして、仕方なく3皿を使い、

1皿は別の柄で代用となる。

重ねた食器に、違う柄が混じることの違和感。

ならば、3皿は捨てて、

また新たな4皿を買えばいいのかというと、

それはやはり勿体ない気がする。

結局、我慢してちぐはぐを許容することになる。

 

こうしたことを危惧して、

あらかじめ余分を入れて、5皿そろえたこともあった。

しかし、そんな皿に限って、

まったく割れずに5皿が残っているのである。

それに、5皿用意したとて、

いずれは、1皿割れ、2皿割れ、足りなくなるだろう。

 

それでは、必ずどこでも売っている、

真っ白な更にしておけばいいと思ったことがある。

皿が割れても、同じ柄がない、とならないように、

どこにでもあるものにしておくという手。

 

実際にやってみて気づいたが、

「真っ白い皿は、センスがないとキツイ」

ということ。

真っ白い皿に、ぽんっと焼き鮭を置いたとして、

淋しいことこの上ない。

ずぼらな私には、多少は柄がある皿の方が、

とても助かるのである。

 

結局、結論は出ず、

「皿のジレンマ」は保留とした。

 

次に頭を悩ませたのが、

「洋服のジレンマ」である。

 

最初は、どう見ても若すぎて、

もう着ない洋服を捨てた。

バーゲンセールで買った、

あまり思い入れのない、あまり着なかった洋服も捨てた。

生地がくたびれたスーツも、

やたら数のあるブラウスも、

もう要らないと思い切った。

 

迷った時は実際に来てみて、

鏡の前に立った。

するともう出番がないことが分かる。

今の、自分には到底着こなせない。

ということは、今より若返ることはないのだから、

と決心がついた。

 

プラ衣装ケース1つに収まるだけにして、

のこりのほとんどを捨てた。

そして、代わりに、

今の自分が必要としている、

家事育児に向いている、

機能重視の洋服をいくつかそろえた。

そうして日常に使う最低限の洋服を用意して、

洋服の断捨離を終えた。

 

「洋服のジレンマ」はここから始まった。

 

最低限の枚数の、比較的手ごろな値段の日常着を

そろえた私は、快適に過ごしていた。

2組、3組の同じような洋服を、

ぐるぐるローテーションしていく毎日。

洋服のコーディネートに悩むこともなく、

しかし以前よりぐっとまとまりのある着こなしに、

我ながら良い習慣を身に着けた、と思っていた。

着る洋服を悩まなくていいことが、

こんなに快適だとは、思っても見なかった。

 

ところが、転機が訪れた。

洋服の枚数が少ないから、

ヘビーローテーションになってしまい、

買い替えの必要が出てきたのだ。

そこでさっさと古いのを捨てて、

新しいのを買えばいいのだが、

迷いが生じた。

 

「このコート。

少し色あせはしたが、

まだ着られるのに、捨てるのだろうか?」

 

迷いながら、そのまま着続けた。

やはり、まだ、もったいない。

そうして着続けて、着続けて、

ついにくたびれ果てて来た。

 

いよいよ駄目かと思ったが、

同じようなコートを探すが見つからない。

一年探して見つからず、

二年目にしてようやく、

似たようなものを購入した。

その間、ボタンをひっかける紐がとれたので、

縫い直した。

壊れたファスナーはあきらめて、

ボタンで前を閉じることにした。

新しいものを購入して後も、

なんとなく愛着がわいて、捨てずにとっておくことにした。

「畑仕事に着ていこう」

断捨離では推奨されない、

「ものを増やす」になってしまった。

 

断捨離をして、ミニマリストのような「素敵生活」

を目指してみるも、

どうも私にはそれは合わないのだと気付いた。

 

少ないものでヘビロテして、

くたびれ感が出てきたら、

新しいものを買って交替、

というのが、どうも苦手なようなのである。

 

だからと言って、断捨離はやめたわけではなく、

自分なりのやり方をしていこうと決めたのである。

つまり、こうだ。

 

「不要なものは捨てる。

ただし、素敵生活は目指さない。

なぜなら、素敵生活のためには、

どんどん買い替えが必要だから。

それが苦手な私には、向いていないのだ。

 

不揃いの皿が並んでも、良しとする。

毛玉のセーターも、良しとする。

 

使って、使って、使い倒して、

これを捨てても後悔ゼロ!

むしろ捨てる時にそう快感すらある!

という気持ちで捨てる。

それが私の断捨離だ」

とまあ、こんな感じである。

 

以前、赤ちゃん用品を捨てたことがある。

ずっと捨てられなかったのに、

長女が10歳の時、たまたま思い出ボックスを開いて、

捨てる決意をした。

黄ばんだよだれかけを見つけ、

同じく黄ばみまくった新生児服を見つけ、

いっさいの迷いが吹き飛んだ。

経年劣化がすごすぎる。

後生大事にもっておく意味はないと判断した。

 

そして、その時、悟ったのである。

「モノには捨て時がある」と。

 

だから無理に捨てなくてもいいと思う。

そのうちに、機が熟して、

たいした踏ん切りもなく、すんなりと、

捨てられる時があると思うのだ。

 

もちろん、物が多すぎて困っているなら、

一気に減らしていいだろう。

けれど迷うなら、一旦どこかにまとめて、

機が熟すのを待ってもいいと思う。

後からの後悔をしないためにも、

そうした方法があることを知っていて

損はないように思う。

 

結論。

私の「断捨離のジレンマ」の解決法。

 

「素敵でない生活」もまた、

私の大切な毎日なのだと気付くこと。

そんな感じである。